幕間 〜二つの夢幻
――― 進さんっ!
その声に弾かれて、はっと拓けた意識と視野と。それまで自分がどうしていたのか。自分が包まれているのは寝間の安息ではない。足にかかる重力の方向、装備の重さ、周囲に走る緊迫感から、修羅場の只中に立っていると瞬時にして把握する。自我を封じての眠ったままにて、それでも立って動いていたのか? そうとしか思えないほどの唐突さと勢いで、意識や何やが弾けるように覚醒して。そして…そんな自分の視野の中。間近にいてこちらをじっと凝視していたその人こそは、
――― セナ、様?
状況が判らない。そんな混乱の中、見る見る内にその大きな瞳にあふれ出すのは何? 胸が痛む。心優しき尊い御方、大切な主上。この自分がお守りするからには、絶対にそんな顔はさせまいと誓ったのは、そう遠くはない頃のことではなかったか? ああ、ご心配をおかけしたのだと判る。もう何処にも行かないでと、勿体なくも望まれているのが重々判る。………だが、
『そのまま、攫ってしまえっ』
そんな指図は到底聞けなかったし、そんなとんでもない事を誰ぞに命じられるような立場にいるような、今現在の不可解で不安定な自分が、大切なセナの傍らにあってもいけないというのだけは判ったから。…だから、突き放した。彼をではなく、自分を彼から。
――― そして、そこからの意識が再び途切れた。
一体、自分はどうしたのだろうか。こんなところで何をしている。いつだってあのお方の傍にいなければならぬのに。…ああ、でも、あんな恐ろしい目に遭わせた事態に関わっていたというのなら、自分はいない方がいいのかな。
『ようお帰りになられた。』
薄暗い中に響いた、そんな声を思い出す。厚みのある声。人へ説法を語るのに慣れた口調の、落ち着いた穏やかな声。
『シェイド卿の小細工により、我らの手の届かぬところへ遠ざけられておりましたが、これでもう安泰でございますれば。』
いかにも聖職者といういで立ちをした、風格も威容もある老爺が話しかけて来たのだけれど。何を言っているのか、自分には意味も内容も全く判らなかった。ただ、恩師シェイド卿を悪く言われたような気がして、そこへと意識を留め置くと、
『よほど強い暗示をかけられたのですね。』
我らが判らないのも、大事なお役目を忘れてしまわれたのも、恐らくはそのせい。グロックスに招かれしは、永の歳月を隔てても霞まぬ、我らへの“誓約”が間違いなく発動したからだというに、
『そもそもの始まり、あの
聞き取れない。
十分な大きさの声が、理解出来るこの土地の言葉が、
なのに、どうしたものか把握出来ない。
暗いのは明かりがないからか。いや、そうと思った途端に乾いた明るさが差し込み、辺りに満ちて。思わず手をかざし、目元を覆う。白い光に覆われた世界。聞き覚えのある声がする。遠く近く、寄っては離れ、くすくすと軽やかに笑い合い、
――― ……さん、…でしょう? だから…。
こちらへと呼びかけては、でも瞬く間に遠ざかる誰かの気配。視野を掠めて、確かにそこに。小さな後ろ姿が、刳り貫きの戸口のところで、立ち止まって振り返る。
「そういえば、進はセナくんが覚醒したのは見てないんだ。」
くっきりとした声が、した。これも聞き覚えのある声だ。穏やかに微笑う、優しい面差しの男。茶器の触れ合う音がする。和やかな時間。温かな暖炉の前。
「当たり前だろ。チビが覚醒したのは、こいつがぶっ倒れたからなんだからな。」
ぶっきらぼうな声。だが、紡いだ言葉ほど口調には棘もなく。むしろ、いたわるような温もりさえあって。気にかけるな、ああ、わざわざ言うまでもなかったかな。そんな気色が滲んでいる。やさしい空間。セナ様を守ると、言葉にしてはないがそれでも、誓ったも等しき、頼もしい人たち。
――― セナくんが覚醒したのは見てないんだ。
当たり前だろ。チビが覚醒したのは…。
ああ、そうだ。セナ様はそれは優しい方だから。他人のためならばその力、最大ゲインまで解放も出来るのだろう、振り絞りも出来るのだろうけれど。
――― では。セナ様自身が危険なときは?
自身のためには、どうしても覇気を集められない人。苦手な小虫に悲鳴を上げて逃げ惑い、誰かの怪我へ涙する、そんな人。一体どうやってこれまで生きて来れたのだろうかと、不器用なこの自分が思ったことがあるほどに、いつだって誰かを先にと優先する人。
「ボクはあんまり両親のこととか覚えてなくて。」
いつだったか、近隣の子供たちの輪の中にいて過ごされた日があって。お母さんの手料理、お父さんの狩りの腕前、誇らしげに自慢する子供らに、どこか寂しげな笑い方をなされていて。どうかなさったのかと問うと、そんな風に仰有ったものだから。自分もあまり覚えてはいませんと言うと、慌ててごめんなさいと謝って下さって。どうして“ごめんなさい”なのか、理解するのに間がかかった自分を、今は失笑まじりに後悔出来る。ただただ剣の修行に明け暮れていて。衛士としての仕官も、規律さえ守っておればいいのだから、自分には苦どころか何とも過ごしやすく。城内の居室や習練房は、背条を伸ばして気を張り詰めていることが、生きている証しをくれるようで。ただただ居心地のいいところでしかなかったが。
――― ああ、そういえば。
風の匂いや緑の瑞々しさ。四季が巡るということ、晴れたり降ったりの意味。温かな処にいても、凍えている小鳥を心配なさっていた幼い横顔。そういうものへと眸を向けるようになったのは、いつの頃からだったろうか。乾いた世界へ、彩りや匂いを与えて下さったのは、笑って下さると嬉しいと思う、そんな不思議な反射を下さったのは誰だった?
――― 役に立てるのが嬉しくて、喜んで下さるのが至上の悦びになった。
誰かに何かに心寄せたのも、思えば初めてだった。物怖じしたような眸を向けられたときは、具合が悪くもないのに、この胸が引き裂かれそうに苦しくなったほどだった。
――― 生きているとは、そういうこと。
だから。自分は、どんなことをしてでもこの方をお守りせねばと思った。どんな奇禍からも災厄からも、敵からも。この身をもってお守りしようと誓った。繊細なままでいてほしい。お優しいままでいてほしい。不甲斐ない自分のことなんかで泣かないで。盾になれて本望です。消えたもののことなど、どうかもう忘れて下さい………。
◆◇◆
「………い。おい、どうした?」
身を揺すられていると気づいたのと、相手の手首を掴んだのとがほぼ同時。そのまま力を込めれば手のひらが開く、そんな関節を違(たが)うことなく、的確に掴んでいたのへと、相手が鼻先で笑う。
「さすがの反射だねぇ。」
眠った振りでもしていたかのような、そんな素早さと力の込めようへ、これでも褒めたつもりらしい弟の声は低く、まだ夜中だと判る。干上がった喉に不快を覚え、寝床から立ち上がる。明かりはないが、慣れた部屋だ。目を瞑ったままでも移動は容易い。
“せっかく起こしてやったのによ。”
悪い夢から掬い上げてやったのに、礼ひとつ、怪訝そうな眼差しひとつ、寄越さなかった兄へ苦笑をし、石の壁に囲まれた室内を見回したのは、ほどけば結構な長さのありそうな髪を縄のように搓った、あの青年で。
“…太守様、か。”
この方向、何枚かの壁を隔てた先に、祭壇をしつらえた部屋があり、そこに横たわる騎士のことをふと思い出す。僧上様の暗示が、だが難無く解けてしまったほどの、光の公主への忠誠心の深さに。これは思っていたより深刻だと、あらためて構えられたのが“回帰の咒”という特別な術にて。深いところまで追いやられている遠い記憶を呼び覚ますための仕儀が進行中だそうな。意識を封じることで、彼を探す者たちからの探査からも逃れられるので一石二鳥だという話だったが、
“つか、そうまでしないと思い出せなくなっているものへ、果たして降臨なさるものなのかね。”
言えば不遜だと叱られようから、それで黙っているものの。さして熱心に構えちゃいない、不真面目でいい加減なこの自分でも、あれれ?と思うような穴が結構多い仕儀じゃあなかろうかと、このところ時々感じるのだけれど。
“一歩引いてる冷め方が、却ってそう見えさせているだけなのかね。”
双子で生まれたそんなせいか、どうも自分は兄の逆を張るのが性分となり、兄が生真面目な分、ちゃらんぽらんに肩の力を抜いて振る舞うのが常となった。そうでもしてなきゃ遣り切れなかった。念じなくとも赤い眸は、残酷な子供たちならではな加虐の対象になりかけたものの、気概を無駄に尖らせて大人たちからまで警戒されるより、無感動な振りを装う方が得策だと覚えさせられて。それで憤慨したのは…自分ではなく兄の方だったのを覚えてるほど。
“生真面目な雲水…アンちゃん。”
弟がいるからと勝手が出来ず、なのに、その不詳の弟の受けた誹謗や、理不尽な我慢を悔しがってくれた人。だから、自分は考えることを放棄して、ただただ兄の選択へ乗っかって此処まで来ただけ、だったのだけれど。
“……………。”
見ない振り、考えない振り。正しいかどうかじゃなく、兄が進む方向だけが進路を指す針だった、そんな道程をついて来たのだけれど。
“………セナ様、か。”
グロックスに選ばれし子供、祝福を受け“器”に選ばれし和子。ずっとそう聞かされて来た、それを信じてた。なのに。小さな主上の傍らにいた彼は、とっても幸せそうだった。大切な人を見遣る時には、深色のそれは和んだ眼差しをしていて、ただの“器”なんかじゃあなかった騎士殿であり、そして。真摯な眼差しで呼びかけて、騎士を封じていた暗示をあっさりと解いてしまった公主様であり。
“……………。”
慣れない“思考”が余計に重い。戦闘や戦術での深読み先読みなら得意なんだがと、苦笑をこぼしたところへ、兄が戻って来た気配があったので。さりげなく、先に寝た振りをしながら吐息をついた。約束の日は限られている。臍曲がりな自分らしいことを、今ここで1つだけ思うとするならば。
“いっそ、あいつが回帰の咒から目覚めなければ…。”
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*あまりに放ったらかしてる進さんを、ちょいと覗いてみました。
それと、阿含さんのモノローグも少々。
でも、心象描写って難しい…。 |